重商主義と啓蒙専制主義

先行内容公開します。重商主義と啓蒙専制主義!教科書は近世ヨーロッパ世界の展開にはいります。いわゆる近世の後半戦、17世紀半ばから18世紀までが範囲になります。

前回の単元から引き続き、主権国家が中心となる枠組みで展開されます。植民地の獲得が激化していくのもこの頃。世界地図はしっかり頭にたたき込んで、近世後半行ってみましょう!



まず、この時期のヨーロッパは「17世紀の危機」と呼ばれる苦しい時期を経験しています。戦争や疫病で疲弊した国家を立て直すために、国家が経済に介入して自国を豊かにすることを目指す重商主義経済がとられます。コロナが治まった後の世界経済を考えれば想像はたやすいかと。ただ、この近世という時期は今ほど国際協調の動きはなく、とにかく自国が良ければいい!という考えなので、一概には言えませんが。

重商主義では、早い話が国内産業を充実させ、輸入を減らして輸出を増やす。ってことです。でも、ヨーロッパの各国が同じことを考えているので、つくった商品はなかなか売れない。じゃあどうするか、と言うと、買ってくれるところすなわち植民地に市場をもとめることになるのです。



そんなバックグラウンドは一旦置いといて、各国の状況を見ていきましょう。

まずは、イギリスから。

イギリスは、囲い込みによる毛織物工業が主産業として確立していますし、エリザベス1世時代の海外政策・東インド会社の成立などにより経済基盤ができあがってきています。さらに三十年戦争によるダメージもなし。安定のなかで、市民層が力をつけていきます。

エリザベス1世には子どもがいない(エリザベスは「イギリスと結婚した」)ので、王室にはスコットランドからスチュアート家が迎えられます。スチュアート朝開始。

国王ジェームズ1世は、王権神授説を採用し議会を無視します。早い内から議会制を確立しているイギリス市民はこれに反発。とくに中心となったのは、ピューリタンの人々です。イギリスのカルヴァン派の人たちですね。

ジェームズ1世に続き、議会を無視するチャールズ1世に対し、議会は権利の請願を提出します。ちゃんと議会の言うこと聞いてよ!!!!っていう嘆願書です。しかしチャールズ1世はこれも無視して、五月蠅い議会を解散してしまいました。そんなこんなで、高まった不満が爆発するのが、ピューリタン革命です。

王党派(国王支援)VS議会派の内戦に突入します。クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍もあり、議会派が勝利。チャールズ1世は処刑され、共和政が実現します。

クロムウェルは、アイルランドの事実上の植民地化航海法の制定などを進めていきます。航海法に反発するオランダとの英蘭戦争にも勝利し国力を高めます。しかし、クロムウェルは護国卿に就任し、実質独裁状況だったので、「せっかく革命したけど、これじゃ意味ないじゃん!!どうせ独裁なら由緒正しいイギリス王家のがマシだわ」ってことでクロムウェルの死後、チャールズ2世による王政復古が行われます。

チャールズ2世は、議会の言うこときくよ!って名目で即位したのですが、結局専制的な政治にシフトしていきます。議会も審査法人身保護法などで対抗するので、国王と議会の対立は激化します。続くジェームズ2世も、絶対王政を進めるので議会は反発。代わりの王としてオランダからジェームズ2世の長女の旦那であるウィレム3世を連れてきます。チャールズ1世のように処刑されては堪らないと、ジェームズ2世はさっさと逃げ出すので、一切血は流れずに国王の交代に成功。これを名誉革命と呼びます。

権利の宣言を受け入れ、ウィリアム3世・メアリ2世として共同統治が開始されました。議会による権利の章典も制定され、ここに議会主権に基づくイギリス立憲王政が確立されます。

アン女王の治世中には、イングランドとスコットランドが合同して大ブリテン王国が成立、続くハノーヴァー朝ジョージ1世時代には、責任内閣制が形成され、イギリスは発展していくのです。


イギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)期の国王は、ジェームズ1世→チャールズ1世→(クロムウェル)→チャールズ2世→ジェームズ2世 です。ジェームズでチャールズをサンドイッチ。クロムウェルはハムです(違う)



フランス!ルイ14世!太陽王!

ルイ13世に続き、ルイ14世も絶賛絶対王政。「朕は国家なり」と言っちゃうくらい権力が集中しています。コルベールを財務総監に任命して重商主義政策をがんがん推進していきます。その権力を背景に、ヴェルサイユ宮殿を建設し、数々の侵略戦争を展開しました。

この時期はまさに豪華絢爛な貴族中心の時代。皆さんがイメージする貴族文化の粋を極める栄華の時代です。実際は、そうでもないけどね。パリの街は、糞尿はそのへんに放置されてるし、風呂もあんまり入らない。汚いものを踏まないようにハイヒールを履き、体臭をごまかすため香水を振りまく…業が深い。

ルイ14世は自然国境説を論拠に、南ネーデルラント継承戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争などに参加します。さらに、スペインハプスブルク家断絶の際に、自分の孫をスペイン王位に就けたのでオーストリアから大反発をくらいます。まあ当然。ちなみに、高貴な血は高貴な血同士で結ばれるべき、という血統主義があるのでこの時期のヨーロッパ王室なんて大体親戚です。

結果、スペイン継承戦争としてフランスVSオーストリア+オランダ+イギリスなどど戦い、スペイン・フランスが合同しないことを条件にユトレヒト条約でブルボン家のスペイン王位継承を承諾させます。反対する人はいないさ(1713)ユトレヒト条約。

いくら国王の権限が強かろうとお金が沸いてくるわけではありません。国民は貴族の豪華な生活や戦費を支えるための税金負担に苦しみます。さらに、ナントの王令が廃止され、ユグノーが国外に逃げ出したのも国内産業に打撃…。カルヴァン派は、富の貯蓄を認めたので商工業者に多いんでしたね。こうしてじわじわとフランス革命へ進んでゆくのです。



さて、三十年戦争で混乱したドイツ。神聖ローマ帝国は事実上崩壊し、ハプスブルク家のオーストリアと、急激に力をつけてきているプロイセンがぶつかることになります。

「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世、続くフリードリヒ2世の富国強兵政策で軍事力を拡大していきます。オーストリアが後継者に女性であるマリア=テレジアを擁立したことに難癖をつけ、オーストリア継承戦争が勃発します。これに勝利したプロイセンは、シュレジェンを獲得。地位を向上させます。

マリア=テレジアはシュレジェン奪還をめざし、フランスと同盟して七年戦争を戦います。そう、フランス。近世ヨーロッパの重要な対立軸として、ブルボン家VSハプスブルク家があります。しかし三十年戦争でブルボン朝優位となったこともあり、マリア=テレジアは方向転換。プロイセンを倒すべく、長年のライバル、フランスと手を組むことを決めるのです。これすなわち、「外交革命」。この柔軟さが素敵だよマリア=テレジア。好き。

苦戦したプロイセンですが、辛くも勝利しヨーロッパで強国の地位を得ることになります。



ロシアでも改革が進んでいきます。ピョートル1世は、ロシア近代化のために皇帝自ら(!?)西欧視察をおこない、改革を進めます。清とネルチンスク条約結んだのもこの時。ピョートル1世はバルト海方面にも進出し、「バルト帝国」スウェーデンと北方戦争を開始します。これに勝利したロシアは、東の大国としてヨーロッパでの地位を高めました。

続くエカチェリーナ2世も改革を進めましたが、農奴制は強く残り、ロシアの近代化を阻害することになります。



さて、この時期の東欧の特徴として「啓蒙専制主義」が挙げられます。啓蒙とは、目を開くこと。君主主導で「上からの近代化」をはかる改革です。「君主は国家第一の僕」ってやつですね。

プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(マリア=テレジアの息子)、ロシアのエカチェリーナ2世が代表格です。たまたま偶然みんな2世。ポーランド分割のスタートもこのメンツですね。

西欧ほど市民層が発達していないため、上から「目を開かせてあげる」必要がありました。このあたりが、この後のそれぞれの歴史に影響を与えていきますので、頭にいれておきましょう。


めっちゃ書いた…長いよ…

最後まで読んでもらえたのかなぁ…授業の1時間は偉大…

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